竹鶴政孝が追い求めた本物のウィスキー

「日本のウィスキーの父」と呼ばれる竹鶴政孝。ニッカウィスキーに脈々と受け継がれている彼が遺したウィスキーへの心は

本物のウィスキーを求めて単身スコットランドへ

国産ウィスキーの歴史は90年とまだ浅い。にもかかわらず、世界5大ウィスキーにも数えられるようになり、海外でもその地位を確実に上げ、ジャパニーズウィスキーの存在は確固たるものになっている。歴代のブレンダーや関わった人たちの努力はもちろんだが、国産のウィスキーを作るために1から技術を学び、形にしていった竹鶴政孝という存在がなければ、今の時代にウィスキーがここまでの地位を得るまでにはなっていなかったであろう。

竹鶴政孝は、1894年(明治27年)広島の造り酒屋に生まれた。大阪高等工業学校で醸造を学んだ政孝は、卒業後、摂津酒造に入社する。そこでウィスキーづくりの魅力に取りつかれ渡英を決意するのである。

単身渡英した政孝は、スコットランドにあるグラスゴー大学に編入し、ウィスキーづくりを本格的に学び始めた。その熱意はただならぬものがあり、ポットスチルの内部構造を知りたいがために誰もが嫌がる蒸留釜の掃除までやるほどで、帰国するころには政孝は完ぺきにウィスキーづくりを習得していた。
しかし、帰国してみると渡英前とは状況が一変しており、勤めていた摂津酒造は経営難から国産ウィスキー計画を中止。政孝は情熱と夢の行き場を失い、摂津酒造を退社するのである。
摂津酒造を退社後、中学校の化学の教師をしていた政孝に「ウィスキーづくりをやってくれないか」と声がかかる。本格ウィスキー製造に乗り出していた寿屋(現サントリー)の社長・鳥井信治郎だった。
鳥井は本格ウィスキーを製造するためにイギリスから技師を招こうとロンドンに問い合わせていた。それに対して帰ってきた答えは「わざわざイギリスから人を派遣する必要はない。「日本にはミスター・タケツルという適任者がいるはずだ」・・・というものだった。
鳥井の依頼により10年契約で入社した政孝は、さっそく国産ウィスキーのプロジェクトを進め、1924(大正13)年、日本初のウィスキー工場「山崎工場」が完成したのだった。

こだわりの集大成、余市蒸留所完成

1934(昭和9)年に10年の契約期間を満了した政孝は寿屋を退社すると、大日本果汁(株)を創立し、自身の求めるウィスキー工場づくりに踏み出す。寿屋時代に国産ウィスキー工場をつくる事を成し得てはいたが、政孝のこだわる立地環境には妥協せざるを得なかった。「スコットランドと変わらぬ環境でウィスキーを作りたい」という強い思いがあったのだ。緯度も気候も海風までも・・・スコットランドで学んだことをすべて出し切ることが出来る場所
政孝は北海道の余市にその場を求めたのだった。そして、会社を創立したわずか3か月後には余市工場が完成。6年後、大日本果汁の「日」と「果」をとった「ニッカウィスキー」の第一号がついに発売となった。

ニッカウィスキーと料理のマリアージュ

政孝の人生が注ぎ込まれたニッカのウィスキー。政孝の時代とは飲み手の舌も作りても様々に変わってきた。当然、ウィスキーづくりにおいても昔と今とでは変わったのではないだろうか?
また、政孝は本格ウィスキーの信念から、日本人が日本料理でウィスキーを飲むことを勧めなかったというが、今もそんな信念が息づいているのか?・・・そんな素朴な疑問は某ビール会社の販売マーケティングを担当する部長が解決してくれました。

「ニッカの良さは変わらないことにあるんじゃないでしょうか。石炭直火蒸留はそれを一番表していると思います。あと、日本料理とウィスキーのことですが・・政孝は造り酒屋の息子でしたから和食には日本酒という概念が自然と身についたのではないでしょうか。ただ「職人はいいものを食べろ」とは言っていたようです。いいものを食べていないと舌も感性も育たないという考えがあったようです」

それならばニッカウィスキーと料理のマリアージュはどうなのでしょうか、あくまで個人的意見ということで話していただきました。「『竹鶴ピュアモルト』なら火を通した魚系の和食が合うんではないでしょうか、ライトながら余韻がしっかりしていて、それでいて料理の個性をそがないんです。『シングルモルト余市』は・・・意外かもしれませんがいぶりがっこが合うと思います、あのいぶした香りと『余市』の個性が相乗効果を生む気がする。あとサーモンジャーキーなどもいいですね。

『シングルモルト宮城峡』は白身系の魚やサンマなど青魚も合います。スーパーニッカは1対3の水割りで焼き鳥と。ハイボールで楽しむなら『ブラックニッカ クリア』で焼き肉がおススメですね」。ウィスキー好きな部長の口からはポンポンと料理名が挙がってく。

ウィスキーが飲める場所が昔はバーやラウンジなど限られた場所のイメージが強くなかなか日本人の飲むお酒としての認知が遅れてしまいましたが、いまや居酒屋でハイボールという形で広くウィスキーが飲まれていることは非常に喜ばしいことだと目を細めていました。

政孝がウィスキーを通して本当に伝えたかった事

政孝は70歳を超えた晩年でも1日1本のウィスキーをあけていたという。それは酔いたいが為にというわけではなく「人生を楽しむ」ということがそこには存在していたのだ。スコットランドで過ごした日々は、ウィスキーづくりだけでなく、政孝にウィスキーの楽しみ方、ひいては人生の楽しみ方をも教えていたのだ。
日本人の趣向に合わせてウィスキーを変えるということではなく、本来のウィスキーの味わい方や楽しみ方を持ち込みたかったのかもしれない。ウィスキーの飲み方は様々で、どれがいい悪いというものでもない。竹鶴政孝がこだわっていたのは「時間をかけてゆっくりと」。「楽しみはできるだけ長く」というのが政孝の最も大切なこだわりだった。
ロック、ハイボール、水割り・・・どんな飲み方でもいいその楽しみが長く続くよう、もし次にウィスキーを飲む機会があればゆっくりと飲むことを意識してみてはどうでしょうか?