サントリー山崎蒸留所探訪

 

90周年を迎えた山崎蒸留所。それは日本のウィスキー誕生の歴史でもある。5大ウィスキーの一つにまで数えられるようになったジャパニーズウィスキーの起源とは!?

日本ウィスキーの父・鳥井信治郎

日本ウィスキーの歴史は1923年サントリー山崎蒸留所の建設着手から始まる。それはサントリー創業者・鳥井信治郎の情熱と執念の賜物だった。
1879年大阪の両替商の家に生まれた信治郎は13歳で薬と洋酒などを扱う薬酒問屋に奉公に出る。そこで調合技術と洋酒の知識を学ぶと4年後、絵具・染料問屋に移り、さらに調合技術を極めていった。1899年、二十歳の時に独立し、鳥井商店を創業。当時はワインや缶詰類を販売していたが、当時の日本の食習慣には馴染まなかった。
いかにして日本人の繊細な味覚に合わせるか、信治郎はワインの調合に没頭していく。後に「大阪の鼻」とも呼ばれた信治郎のブレンダーとしての才能が、ここでも如何なく発揮される。社名を寿屋洋酒店と変更した翌年赤玉ポートワインを発馬して大ヒット。念願の洋酒事業に打って出る準備が整った信治郎はいよいよ本格国産ウィスキーつくりを目指す。
当時、本格ウィスキーはスコットランドやアイルランド以外では作れないと考えられていた時代。製品は長い年月を経なければ品質の善し悪しが分からない。何よりも蒸留所建設には莫大な資金がかかる。周囲は猛反対したという。だが、信治郎の信念が折れることはなかった。

ウィスキーに最適な水と風土を求めて


「良い原酒は良い水が生み、良い熟成は良い自然環境なしにはあり得ない」
信治郎が選んだのは京都の南西、天王山の麓、桂川、宇治川、木津川が合流する山崎の地だった「離宮の水」と呼ばれ、かの千利休も愛したという名水はウィスキーづくりに最適であると考えられた。
建設着手から1年余りついに、1924年、山崎蒸留所は完成する。
「あそこにはウスケという大麦ばかり食うバケモノが棲んでいるいる」
牛車が列をなして大麦を搬入しているのに、何年たっても商品が運び出されないと、不思議がった周辺住人たちはこう噂していたという。
時を経て2013年、90周年を迎えた山崎蒸留所。2010年には世界的な酒類コンペディション「インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ」にて、サントリーは高品質で多彩な製品を生み出したメーカーの中から1社だけ贈られる「ディスティラー・オブザ・イヤー」を、「山崎1984」が最高賞「シュプリーム・チャンピオン・スピリット」を、日本企業として初めて受賞した。鳥井信治郎の目指した「日本人による日本人のためのウィスキー」は世界が認める品質まで成長したのである。